頭の中も時に断捨離
昨日は江南市の藤まつりへ行ってきました。
『曼荼羅寺公園』内には正堂の曼荼羅寺をはじめ、いくつか寺院などもありました。
その歴史は古く、1329年に竣工というのだから、私の頭では想像も出来かねる世界です^^;
園内を散策していると、『慈光院』という名の建物がありました。
門をくぐるとポップなサングラスをかけた小坊主の銅像(石像なのかな?)がありました。
可愛らしいです😊
ふと見ると、台座にはこんな文言が彫られていました。
『はけばちり はらえばまたも ちりつもる にわのおちばも ひとの心も』
この詩は作者不明とのこと。
でも、例えば学校とかの道徳の時間に使われたり、お寺の説法とかで聞いたりした人もいるかもしれません。
私も、若かりし頃に、聞いたことがあるような、無いような。
若い頃には心に刺さらなかっただけかもしれません。
今、この歳だからこそなのか、何故か心に響いてきました。
さて、その『ちり』とは何ぞや。
私利私欲の思いだったり、悩み事だったり、人の心は次から次へとうつろでいきます。
はいても、はいてもです。
ちゃんと掃除をして、いらないものは捨てていかないと、家の中がごちゃごちゃになるように、人の心も同じなのかも。
何も悩んでなければスルーしていたかもしれなのに、何故か目についたってことは、
今の自分の心の中が『ちり』でごちゃごちゃしているせいかもしれませんね^^;
さて、話は変わりますが、今日はまた母のところへ行き、久しぶりにいつもの喫茶店へと出かけました。
ひとしきり話をして帰ろうとした時、母が急に
「ここで何か忘れたことあるね。なんだったかなぁ^^;」
と言うのでびっくりです。
(ほら、あの20万もする補聴器だよ。)
と思ったけれど、口では控えめに、
「補聴器だね。」と一言だけ言うと、
「あ、そうだった、そうだったわ。補聴器だったね。」と思い出して苦笑いしていました。
過去ブログ;【母の補聴器・番外編 〜人として、親として〜】
また、あの時の自分を責めてしまう感情が湧き上がってしまったら可哀想だなと思っていましたが、苦笑いで終わって、大丈夫でした。
一応補聴器のお金を兄に返したという時点で、母にとってあの事件は解決済みのようです。
そうは言っても、何を忘れたかを忘れてしまったなんて、やっぱり記憶力の衰えは相当かもしれません。
一応、話せば思い出すけど、言った先からもう忘れている可能性はあります。
ふと、思いました。
忘れてもいいことは、忘れてしまった方が心は楽かも知れないかも、と。
忘却も時に妙薬😐
それでは皆さん、今日もありがとうございました。
明日もいい日でありますように。
おやすみなさい^^!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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<おまけの話>
忘却は妙薬だけど、効き過ぎはよくないようです。
昨日のことはもちろん、今朝食べたものさえ忘れてしまうと言って不安になる時があるようです。
大事なことはカレンダーに書き込んでいて、毎日の出来事はミニ日記をつけているそうです。
でも、データが多過ぎると管理が大変。
何十年もの記憶をどう整理整頓したら良いのやら😣
パソコンもだけど、頭の中もなのかも。
不用なもの、不用思いは『ちり』と思ってはいて捨てるべし。
『断捨離』って、そういうこと?